僕はこの10年間、実機試作を何回も経験してきた。
まずラボで実験を繰り返して「ラボスケールで上手くできる処方」を確立する。
次にその処方を、もっと大きなスケールの反応装置(実機)で試して、製法を最適化する。
研究で生まれたモノを製品化するには、少なくともこの橋渡しを行う必要がある。
「研究開発は『研究』という名がついているので、普遍的な処方=どこでも通用する処方を探し求めて確立するものだ」と考えている方も多いかもしれない。
ラボスケールでの処方=全国各地、どこの研究所でも、大まかなスケールさえ合えば全く同じものが再現可能
実機スケールでの処方=どの会社・どの地域の反応装置でも、大まかな規格さえ合っていれば同一品質のモノが作れる
しかし実際にラボ/実機処方の確立を繰り返す中で僕が強く感じてきたことは、「そんな魔法のような理想は起こりえないんだ」という一種の諦念だった。
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極端な例では、1Lのフラスコでは良いモノが作れたのに、2Lのフラスコになると失敗したり、
同じコンセプトでほぼ同じ規格の反応装置なのに、自社工場とOEM先とで製品の性質が全く異なっていたり。
また、同じ反応装置を用いても、夏と冬とで出来上がるモノの品質が規格値の上限~下限までブレたこともある。
最初は「仮説立てた理論にエラーが含まれていたのかもしれない」と考えて、理論の方を一生懸命直そうとした。
技術書や教科書を読み漁り、理論を引っ張り出しては実験系に応用したりしてきた。
そしてその理論を研究資料にまとめ、さもこれが「どこでも通用する○○作りの理論だ!」という顔をしていた。
しかし回数を重ねるうち、どうやらそうでもなさそうだ、ということが分かってきた。
そもそもモノづくりに「どこでも・いつでも通用する絶対的に不変の処方」など無いのだ、と思うようになってきた。
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極論を言うと、企業のR&Dの役目は「そこだけで通用する科学の探求」だと思うに至った。
この工場のこの反応装置で、最高のモノが作れる条件を確立せよ。
それが研究開発の「研究」に与えられた役割であり使命なのだと。
普遍的な処方=真理を現象から抜き出すのは、少なくとも↑を完遂した後になる。
しかもモノづくりでは、純粋な学問分野とは比べ物にならないレベルで複雑な系を扱うことになる。
対象となるモノ自体もスケールが大きい。それは即ち、数えきれないミクロの要素が積み重なってできた構造体、ということである。
そしてそれを取り巻く環境の要素も数えきれない。
なので関与する要素が多すぎて、純粋な理論を抜き出すことなど不可能に近い。
ここに落とし穴がある、と僕は強く感じている。
やはり「研究開発」という名前の「研究」の文字に引っ張られすぎて、自分のやっていることに自信を持てなくなるのである。
ほぼ何も考えず、毎日ひたすら泥臭い実験をしている」「論文を書いたり学会発表したり、そういったことを全くしていない」
現場仕事に近い肉体労働を繰り返す自分を、研究者というアイデンティティと一致したものとみなせなくなる。
僕自身がそうだった。
研究開発でも、配属後に感じる強いギャップで、辞める・もしくは異動する新入社員は多いが、↑のアイデンティティとの不一致が要因の1つではないかと感じる。
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今振り返ると、僕は「普遍性へのあこがれとこだわりを捨てた」から、今まで生き残ってこれたのだと思う。
「企業の研究開発ってこんなもの」と割り切った。
論文や学会発表へのあこがれは、そのイベントがあると思いだすと再燃する。
しかし少なくとも普段は「普遍的な処方を確立したい」といった思いや、「それを論文にまとめて世に出したい」といった思いは持たない。
なぜそうなったかといえば、冒頭に書いた通り、ラボ/実機の両面で処方の不一致を経験し、その苦味を噛みしめたからだと考える。
今R&Dの仕事に意義を見出しにくく悩んでいる方がいたら、まずは「企業の研究開発なんてこんなもの」と思ってみることをお勧めする。
少なくともそういう考え方がある、という思考のルートを頭に1本加えるだけで、不思議と思考がその道に沿って流れやすくなってくれる。
そうして誤魔化しながら歩み続けるうちに、いつしか分厚い経験ができて、己を支える強みに熟成されると実感している。
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