この週末、両親が僕の赴任地まで会いに来てくれた。
喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら、お互いの近況談議に花を咲かせた。
僕が休職を転記に生き方を変えたこと、その生き方とは夢を実現しに行く生き方だということ、その夢の中身...を話すと、大いに賛成してくれた。
しかし1点だけ、父も母も口をそろえて言ったのが「○○は無理をしすぎるから、そこだけは気を付けて」。
喫茶店でも送り迎えの車中でも、別れ際でも↑を言い続けていた。
これまでの僕だったら「はいはい分かってるよ」と煩げに聞き流していたが、今回ばかりは感じ入ることがあった。
母はもうすぐ65歳になるが、身体はボロボロだ。
身体は骨と皮だけだし、股関節は曲がって人工関節を入れたし、腎臓肝臓も数値が異常。
正直「よく今回ここまで旅行できたな」という感想だった。
そんな母が漏らした言葉が「若いころの無理が歳とってから一気に噴き出してきた」とのこと。
なんでも、母も若いころに栄養失調手前までダイエットした経験があるらしい。
のみならず、高齢になっても無理して運動をしていたらしく、そんな無理の重なりが今のボロボロの母を作ってしまったらしい。
母の話は、そのまま僕にも当てはまってしまう。
そう直感し、背筋が寒くなった。
僕が休職に至ったのも、大元を辿れば無理しすぎな性格が災いしてのこと。
(この『無理しすぎな性格』に至ったのは、何の才能も素質もない自分がこの社会で生き残っていくための生存戦略が発端だったのだが、ここでは割愛)
...これは真剣に向き合って、直さないといけん。直さないと、生涯走り続けることができなくなってしまう。
そう思い、書店へ足を運んだ。
そこで選んだ本に書いてあったのは、「無理しすぎな性格は少しずつ直していける」という希望的な言葉と、実践トレーニングだった。
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この並びの真意は何か。
僕は「人の性格は確かに変えられる。ただし変えるには、実際の行動を地道に何年もかけて積み重ねなければならない」という希望と絶望だと捉えている。
行動すればそのインプットで、その時は変わる。
そしてそのインプットを重ねれば、変わった自分を維持できる。
しかし、1回変わればずっと続くわけではない。
気の遠くなるような積み重ねをやり続けて、ようやく自分の一部になるかもしれない。
もしかすると一生やりつづけねばならない。そういうレベルかもしれない。
しかし、休職期間から様々な本を読み続けて実感したことは、「結局は"トレーニング"として積み重ねていくしかない」ということだ。
どんなに科学的な方法を取っても、スピリチュアルな方法を選んでも、結局は「やる、やり続ける」に行き着く。
これはヒトという生物に生まれ落ちた時点で決まった定めだと割り切り、自分のできる範囲でやっていくしかない。
僕がまずやるべきことは、自分のバッテリー残量を意識して「無理をしないこと」を1つ1つ実践していくこと
悪く言えば軟弱者、良く言えば自分の心身に正直。
そういう生き方へのシフト。望むところだ。
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