僕は実験室に住んでいると言われている。
なぜなら昼飯時以外の殆どの時間は実験室にいて、ひたすら反応をかけていたり、出来上がったモノの分析をしているからだ。
この前、僕が反応をかける平均回数を数えてみると、週に3回。計6バッジ(1回に2バッジかけるから)となった。
この研究所でここまでバッジ数を稼いでいる人はいない。
良く言えば試行回数を稼げているし、悪く言えば非効率の極み、ということになる。
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僕自身は、このバッジ数の多さを悪く感じてはいない。
僕は新規用途探索を手掛けており、ざっくり言うと新しい市場に対応できるモノを創り出さねばならない。
そのためには、調べて持ってきた新しい技術が、手持ちのモノ・コア技術と相性よく作用できるか確認せねばならない。
確認=実験だ。
ここは重要なポイントだが、頭で予想した結果と実際に試してみた結果は相反することが大半だ。
少なくとも、僕の9年間のR&D生活の中で、予想通りの結果だったことは指折り数えるほどしかない。
また、予想通りの結果であったとしても、その過程で予期せぬ副産物に出会うことが多い。
一例をあげると、反応性を上げる検討で触媒として投入した塩基が、まったく別のメカニズムで導電性を上げる...という結果が得られたことがある(結局この知見は特許も出されていて、公知のものであった...勉強不足!)
数を打って損することはない、と思う。
(実験で費やした時間・ユーテリティ・資材費...などのコストと見合うかはまた別の話)
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上記の経験を踏まえて、僕は「凡人こそ、キャパの許す範囲内でバッジ数を稼げ」と言いたい。
手を動かすことでしか見えないものは無数にある。
逆に、手を動かさないで頭だけで見えるものも確かにあるが、それができるのは素質のある人に限られると強く感じる。
僕もかつては「頭だけ」で見えないものを見ようと躍起になっていた時があった。
入社2~3年目あたりだろうか。
平日は帰宅したら勉強、休日もトレーニング以外の時間のほぼ全てを教科書の読み込みに費やした。
これを数年間続けた。
その結果...確かに見えるようになった(と感じた)事は増えた。
ただ、この取り組みで見えるようになったものは、却って研究開発の足を引っ張ることが多かった。
一言で言えば「ニーズに即した製品開発がやりにくくなった」ということになる。
教科書で得た知識が製品にも当てはまるのかどうかといった、純粋な疑問から研究を始めることが多くなってしまった。
R&Dでもアカデミックでも、研究とは「テーマ」という大きな幹を育てる行為だと考えている。
大きな幹を育てていく中で、枝葉となる知見も自然と育っていく。
しかし教科書では、そういった筋道を端折って、知識のみを断片的に与えてしまう。
これが僕には良くなかった。
教科書通りか確かめるのは、幹か枝葉かと言われれば枝葉になる。
僕がやっていた「製品でも教科書通りになるのか?」といった純粋な疑問を確かめるためだけの検討は、ニーズに即した製品という「テーマ」の養分とはなりにくかった。
もっと頭のいい人であれば、断片的な知識も統合して扱えるかもしれないし、そもそも教科書がそういったもの...と割り切って接することも可能かもしれないが、僕はそうではなかった。
前述の「頭だけで見ようとする素質」が、僕は壊滅的に無かった。
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この「頭だけで物事を見ることが難しい人」を、僕は凡人スケールの人だと考えている。
悪い意味ではない。凡人≒普通であり、頭だけで物事を見通すことなどできない人が大半だ(と僕は信じたい)。
そういった人はどうすればいいのか。
この問いに対する答えを、僕はようやく用意できたと感じている。
すなわち「キャパの許す範囲内で、人よりも反応を1バッジでも多くかけろ」である。
(キャパオーバーしてしまうと、見えるはずのものも見えなくなってしまう。この辺の体験談に関しては)
僕は才能・素質といったものに何一つ恵まれず、弱いながらもいくつか障がいも持っていたりする。
そんな僕でも、モノの本質に迫ることができるようになった。
凡人が仕事と闘う1つの術として、参考になれば幸いである。
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