1週間ほど前、入社数年目の若手社員から、実験へのアドバイスを求められた。
「後1ヶ月でこの製品に新しい性能を付与したいんですが、○○(私が手がけている手法)について教えていただけませんか?」とのこと。
自分の培った技術が少しでも人の役に立つなら...と柄にもなく張り切り、あれこれとアドバイスした。

しかし、彼は説明を聞いても、どこか腑に落ちない様子。というか迷ってる様子。
「どうした?何か引っかかることでもあるの?」と質問すると「確かに○○はいい手法ですけど、それではなくて、製品中の添加物を代替するやり方で行こうか迷ってまして...」とのこと。
製品中の添加物を別のものに変えるアプローチは、彼が別の案件で主に使っていたアプローチだった。

そういう事だったのか、と合点がいき、僕はアドバイスの口調を変えることにした。
「もしどうしても行き詰まったら、○○の手法を使ってみたらいい。その時に声かけてくれたらアドバイスくらいはできる」というように、僕のやり方を押しつけないように一歩引いた。

このやり方が正しかったのかは分からない。
結局彼は、添加物を見直すアプローチで実験に着手したとのことだった。


彼の選択は、僕にとっても馴染み深いものだった。
数年も同じ研究をしていると、やり慣れたやり方を選んでしまう。
やり慣れたやり方において、どう進めればどういう結果が出そうか、タイムスパンはどの位か、仕事量の負荷はどれくらいか...など、そういった懸念事項が瞬時に頭ではじき出せるようになるのだ。

そして、やり慣れたやり方だと、独特の勘所が冴え渡る。
どんなに地味で冴えなくとも、突飛で危険に見えても、その人がずっとやってきたアプローチからは、それなりの成果が引っ張り出されてくる。
そこを見ようとせず、他のアプローチを強引に選択させるのもナンセンスというものだと僕は思う。

言い方を変えれば、違うアプローチには拒否感が出てしまう。
どんな結果が出るのか、自分の頭では見積もることが出来ない。
潜在的なリスクに一度拒否感を覚えてしまうと、R&Dの要である発想の枝葉が伸びてくれなくなる。

実際、アドバイスを求めに来た若手の後輩が逡巡の色を見せた時、「これは僕のやり方をゴリ押しすべきじゃないな」と肌で感じた。
実は彼の中では答えはほぼほぼ決まっていて、「もし奇跡的な転回を期待できる超技術だったら、試してみようかな」くらいのノリだった...のかもしれない。

理想を言えば、やり慣れたアプローチに固まりすぎると新規性を見失う→違うアプローチにも積極的に取り組むべき、となるだろう。
しかし僕がR&Dの現場で強く感じるのは、「研究者といっても人間で、加齢による弱さは人並みだ」ということだ。


どんな人でも、20台後半から徐々に気力体力のゲージが小さくなる。
加えて、週5で働き、労働に束縛され、職場では雑務に追われる。
そのような一種の監獄で数年も過ごすと、新しい事に手を出す体力が加速度的に削られていく。

現実世界では、ここで無理に新しい事に着手しても、その経験から何かを吸収して成長するのは稀だということを、僕は痛いほど学んだ。
加齢によって、吸収率もまた下がるのだ。

僕が今回の経験から得た学びは「アドバイスを求められたら、まずはその人の仕事を見て、その人なりの進め方に沿った提案をする」というものだ。
どんなに良いアドバイスでも、実行してくれなければ何の意味も無い。
アドバイスの質に加えて、実行可能性の高さも大事であり、それは通常思われているよりも数段大事だ...と僕は思う。