僕は大学では植物の遺伝子を3年間研究していた。
俗に言う「バイオテクノロジー」というやつで、目的の遺伝子をコードするDNAを植物にぶち込んで、植物がどう変わるのかを見ていた。

植物に導入するDNAを得るのには、主に大腸菌を使っていた。
まずは大腸菌に目的のDNAを導入する。大腸菌は増えるのが早いからDNAもすぐ増える。大腸菌を溶かしてDNAだけを単離する...という手はずだ。

大腸菌を育てるのはとても簡単で、「LB培地」という簡素な組成の培地を作って、そこに菌を撒くだけでいい。
僕がいたラボでは「サルでもできる大腸菌の育て方」と言われていたくらいで、就活の時もまさかこれがスキルと呼べるだなんて思っていなかった。


...時間は飛んで、先週末のこと。
社会人8年目の僕は、とある事情から、バイオ系事業の室長と一緒に働くことになった。

ある時室長から「相談事がある」とのこと。
話を聞いてみると、新規プロジェクトで大腸菌を扱うことになったのだが、育て方が分からないとのことだった。
「調べてみたら、この『LB培地』ってやつが出てきたんだけど、本当にこれでいいのか?」と。
バイオ系事業の中心にいる室長が、なんと大腸菌のLB培地を知らなかった!
僕はこの事実に仰天してしまった。


・...「仰天」という言い方は奇をてらいすぎたかもしれない。
その室長は、学生時代は畑違いの研究(確か化学プロセス系)をしており、入社後も主にそっち方面で働き続けており、生物を扱うようになったのがつい最近、ということだった。

話を聞くと、「生物畑でキャリアを積むうち、それなりに知識はついたが、若い頃なら得られるはずの「勘所」というやつがいつまで経っても身に付かない。
大腸菌のLB培地も、ググって組成は知ったが、これまで使っていた培地と組成が違いすぎていたので、不安になって相談した...」とのことだった。


企業の研究者は、想像以上に「専門外」だ。
理由は単純で、人事が専門外の部署へ人材をあてがうため。
これは会社という組織内での需要と供給のマッチングの結果であるため、ここでの言及は避ける。
ただ当研究所の場合、学生時代の専攻がそのまま現在の職務に当てはまっている人は、ほぼゼロだ。

加えて、社会人になると「勘所が身に付かない」「不安は先に解消せねばならない」が障害となる。
大人になるにつれて、脳の可塑性もキャパシティも減っていく。
そして勉強する時間も気力も無くなってくる。
だから、若い時に数回やって学べたことが、数年経っても身に付かないなんてザラになってくる。
そんな時に頼れるのは、かつての自分が築いた「勘所」だと僕は強く感じている。
大人になってから勘所を培うのは至難の業だ。だから、大学で手掛けた事は「スキル」として売りに出せる。と僕は思う。

また、会社では迂闊な失敗はできない。
会社という組織では、時間も物資も金であり、理由をつけられない浪費は許されない。
失敗のリスクを下げるには、ごくわずかな不安でも先に片付けておかないといけなくなる。
だから外部の機関に事前調査を依頼するし、専門家に話を聞きに行く。
そしてここでいう「専門家」とは、数年間その分野に携わり、きちんと教育を受けた...そういうレベルをも指す。
つまり、大学できちんと学んで手を動かしたことは、社会人にとっては喉から手が出るほど欲しいスキルでありうる。


...これは僕の後輩の話なのだが(もう辞めちゃったけれど)、彼は学生時代にガスクロを触っていた。
・その経験をフルに生かして、入社後はガスクロのメンテやトラブル対応を任され、最後には「ガスクロのことなら彼に聞きなよ」と言われるまでになった。
(仕事が増えただけじゃん...という意見もあるだろうし、僕もそう思う。ただし、彼が人に頼られているのを見て『いいなぁ』と羨ましく感じていたのは事実である)。

彼に話を聞くと、「学生時代にちょこっとガスクロ触っていましたよ~」とのこと。
彼が作った「ガスクロメンテノート」は、今でも色んな人がまず参考にする。


若い頃に3年間手掛けた事は、思った以上に染み付いている。
たとえ「たかが大腸菌の培養」であっても、立派な1つのスキルとして宣伝してもいい...のかもしれない。