ここしばらく、昇進を機に大人しくするようにしていた。
なるべく場の空気を読んで発言する、上司とこまめに報連相を交わすようにする、独りで突っ走らない、などなど。
最初のうちは、それでうまく回っていた。
しかし徐々に、「大人しくする」から「委縮する」に変わってしまった。
上司の言う事と周囲の評価を気にしすぎて、何も手に付かなくなったのだ。

決定的だったのが、この前上司にメールの文面についてお叱りを受けた時。
僕としては純粋に分からなくて尋ねた文面だったのだが、どうも世間一般的には「礼儀を欠いた文面」だったらしい。
叱られた際に、自分でもハッキリ感じるほど気持ちが縮み上がってしまい、それ以来新しいモノへの意欲が全く出なくなってしまった。


この先ずっと委縮しながら仕事をしていくのだろうか。
家に帰っても休日でも、モヤモヤが続いた。
そしてある時ふと「昇進できなくてもいいや」という開き直りが生まれた

僕は主任に昇格した際、上に登る面白さを発見し、その先にも目を向けるようになった。
係長クラスの主任研究員、課長クラスの主席研究員...
更なる高みを目指せる。お金もたくさんもらえるようになる。そう思うと、確かに高揚した。

しかし冷静に考えると、それって本当に僕にとって不可欠なのか?と。
うすうす感づいていたことではあるが、僕には上のポジションで発揮できる器が無い。
中学生の時は進んで学級委員をやっていたが、8割程度の盛り上がりしか生み出せなかった。可もなく不可もなく、程度のまとめ役にしかなれなかった。適性のある子がやっていれば、もっと盛り上がっただろう...と今でも思う。

僕には上に立つ能力は備わっていない。せいぜいが係長クラスどまりだろう。
じゃあ、今無駄にビクビクしなくとも、やりたいようにやればいいんじゃないか?
ビクビクするよりも「やろう ぶっころしてやる」くらいの気概で臨もうと。そう思った。

腹の内を180度転換してみると、不思議なことに、新たな仕事を生み出す気力が満ちてきた。
新規の研究テーマに着手したくなってきた。
やってみたいと思っていた実機のスケールアップ検討、言い出したままでずっと止まっていた。
しかし「開き直り」をした翌日、同僚に実機の図面の手配をお願いし、自分でも探すようになった。
何かがスッキリと晴れた気がした。


この一件で学んだのは「評価を気にすると研究魂は枯れる」ということだ。
そして、研究開発において不可欠なのは「自分の身を捨ててでも可能性を掴みに行く」という潔さだと学んだ

今まで僕が(比較的)うまく研究出来ていたのは、評価を気にしないという(ある意味)不遜な態度があったからではなかったか。
逆に言うと、今の昇進を前提とした雇用制度では、研究心・探求心というものは枯れて当然なのではないか、とも思う。

この辺りは会社の利益にも絡んでくるので、議論はしない。
しかし個人的には、失った研究心の一部を取り戻せて息を吹き返した心地がしていて、これは生きていく上で必要な物なんじゃないかと感じている。

とりあえず、心の中に「やろう ぶっころしてやる」を少しだけ住まわせて、仕事していこうと思う。

P.S. この心持ちをメインにして仕事を進めていると、万事が雑になってしまい悪影響でした。
ほどほど(1割程度?)に住まわして、時々顔を出させる程度が良さそうです。