僕の専門はグラフト重合という分野だ。
グラフトとは「継ぎ枝」という意味で、幹となるポリマーに他のポリマーを枝葉の如くくっ付けていく。その中でもグラフト重合は、幹ポリマーを起点としてモノマーを重合させる→モノマーが連なったグラフト鎖を作ることを指す。

僕は7年間、この技術を手掛けてきた。
何年もやる中で自然と知識もついてきたし、(やる気のない僕でも)ある程度は意識的に勉強もした。
そうした中で同僚の研究テーマの報告などを聞くと、「グラフト率はどの位だろう?」「このモノマーをグラフトさせればいいんじゃないか?」など、だんだんとグラフト重合的な観点で読み解くようになった。
手持ちの知識がそれしかないから、でもあり、手垢の付いたその知識が何よりも頼りになるから、でもあった。

グラフト重合の知識が身に付くにつれて、明らかに発言の中身が充実し出した。


僕の思考回路は極めて単純かつ平凡だ。
抜け穴を見つけ出したり、観点を180°ひっくり返したり...そういうトリッキーさは持ち合わせていない。バカ正直に正面から考えて、誰もが考え尽くような当たり前の結論しか出せない。「考える素質」という観点で見ると、僕は明らかに素質がない。

しかし、そんな僕でも、知識をつけると今までより少し良い結論が出せるようになった。少しだけ視点の角度を変える事ができたり、説得力が少しだけ増したり...その程度だが。


考えてみれば、この現象は至極当たり前だ。
例えば、売上を第一に考えなければいけない場面でも、営業に関して何も知らなければ、そもそも考えようがない。しかし、仮に営業と同席してユーザー訪問の1つや2つでもしたならば、お客さんがどういう要素をどれだけ求めているのかが微かに分かるようになる。すると、次の場面では、少しだけお客さんの役に立つような提案ができるようになるかもしれない。


知るという事は、今までにない思考の方面を開拓する行為だ。知識を支点として、思考のアームをグルグルと回すのだ。思考回路自体は平凡でも、支点となる知識が多ければ多いほど、多方面に思考の腕が広がり、思いもよらない考えが生まれ得る。つまり、知識を多く持つ事で、今までにない思考回路を経験することができ得る。

その結果、見える世界が変わる。

しかも知識自体は比較的しっかりと保持できるので、再現性高く良い思考ができるようになる。


これに相対するアプローチが「トリッキーな思考回路自体をインストールする」というものだろう。具体的には、パズルを解いたり将棋を指したり...だろうか。
考える素質を手っ取り早く身に着けるなら、このアプローチが一見良さそうに見える。

だが自分は、このアプローチには反対だ。
なぜなら僕自身がやって全く効果がなかったからだ。

否、効果がなかったわけではない。
インストールしてしばらく(2~3日程度)は、ある程度斬新な考え方ができるようになった。しかし、一度できた考え方が、どうしても根付かなかったのだ。

僕がここから学んだのは「思考回路自体は今までの経験の蓄積であり、それを変えるのは至難の業だ」ということだ。
(ここでいう「至難の業」とは、99.9%以上の割合が失敗するイメージで、「ウサインボルトが100mを9秒5で走れたのだから、人類は9秒5で走れ得る」と同レベルの神がかり的な業の道を指す)。

無理に新しい思考回路を導入して失敗するよりも、知識という筋肉を強化して、今の自分が持つ思考回路を補強した方が、ごく自然に新しい思考に至ることができると学んだ。


「知識をつけて新しい思考に至るのを待つ」アプローチは、想像以上に時間がかかる。
知識が血肉になるには、最低で数年スパンの時間がかかる。しかも知識が思考回路と馴染まないうちは、変な結論に達してしまい、一時的にパフォーマンスが落ちたように感じる時さえある。

しかしこのアプローチのいい面は、確実に成果が出るというところだ。
1年で1→10のような劇的な変化は望めないが、数年かけて1→2→3...と少しずつレベルアップし、10年後には1→10となり、20年後には10→20となっている。
そんな亀の歩み的なアプローチだ。

僕はこの歩みの遅さにこそ、希望を感じている。歩みが遅い分だけ、じっくり振り返ることができる。歩みが遅いからこそ、やった事が細部まで浸透し、血肉として馴染んでくれるからだ。


知識は素質たりえる。これは覚えておいて損はしないはずだ。