僕が最近思うようになったのは「研究開発における自己研鑽は必要最低限に留めておいた方がいいんじゃないか?」ということだ。


僕の事例:ToDoをつけなくなったら、暇に耐えかねた時にサンプルで遊ぶようになった

これまでは「空いた時間は勉強するぞ!」と意気込んでいた。

勉強に手を付けるには活性化エネルギーが要る。
暇になった時は「勉強かぁ...」と気が重くなり、でも勉強を始め、研究に目が向く事がなかった。
勉強に向けて自分を奮い立たせるのが徐々にしんどくなってきたが、「やらねばやらねば」とガチガチに自分を縛り上げて、何とかこなしてきた。

しかしある時、「もう勉強はいいかな」とサボってしまった。
これが転換点となった。

勉強を止めてどうなったかというと、業務が無く暇になったとき「暇だしこのサンプルで遊んでみるか!」と思い立つことが出来たのだ。
同僚とディスカッションし、処方を作り、フラスコに薬剤を仕込んだ。
その瞬間瞬間が楽しくて、胸が躍った。


必要以上の自己研鑽は「研究的遊び」から身を遠ざけてしまう。と僕は感じた。

やる事をカチッと決めてしまうと、その道筋に固定されてしまい、寄り道ができなくなる。
自己研鑽は自分で駆動力を生まねばならないので、多かれ少なかれシンドサを伴う。
そのシンドサを乗り越えるために、やるべき事の優先順位を上げる。自分をガチガチに固める。
すると、研究へ気持ちが向きにくくなる。

一方で、研究開発において不可欠なのは「遊ぶように試す」行為だと思う。
「こんな事できないかな」「あの薬剤を使ったらどうなるかな」といった軽い疑問を蔑ろにせず、とりあえず手を付けてみる。
その結果、必ず何かしらの発見がある(上手くいかなかった、という発見も含めて)
その発見の積み重ねが、いわゆる「シーズ」になる。
「やらなきゃ」と自分をガチガチに固めるのとは真逆の行為だ。


暇な時間を「研究的遊び」にするには、遊びに向かう準備が要る。

脇道に逸れるには、暇な時間を作ればいいだけじゃなくて、脇道に逸れやすくする工夫・準備が不可欠だ。
この準備が無いと、暇になった時、ただ時間を潰すだけになるか、自分のやりたい事をやるだけになるか、に陥ってしまう。
僕がこの2年弱、ずっとハマってきた落とし穴であり、蟻地獄だ。

研究的遊びにシフトしやすくなった時、自分は以下の事をやっていた。
・その日やるべきと決めていた自主義務を放棄した
・上司・同僚と冗談交じりに話すようになっていた
・「時間がかかれば明日に回せばいいや」と気楽に構えた

完璧主義を捨て、ディスカッションがしやすいように、自分の内部、周囲との関係を整えていく。
これもシーズを創るためにすべき「研究開発の業務」なのではないか...と考えている。