企業の研究開発職で重要となる能力の1つが「調整力」だ。
雑談力、ともいえる。

具体的に言うと「住む世界が違う人々と、初対面から当たり障りなく交流できて、程よく引き締まった印象を抱いてもらえる力」。
なんとも長ったらしくなってしまったが、とっても大事な力であり、僕にどうしようもなく欠けているものだ。


研究開発では、文字通り「住む世界が違う」人々と会い、意見を交換し、一緒にやっていこうと巻き込まねばならない。

研究所長→事業本部長→企画室長を全て経験した60代の役員と会食することもあれば、現場一筋20年で叩き上げの担長と、タバコ臭い待合室の中でサシで話し合ったりもする。

研究開発は製品の最上流にいるので、どこに行ってもお願いをする立場にある
・「すみませんが、新しく開発した○○を製造してもらえませんか?」
・「申し訳ありませんが、このアイデアをご評価いただけますか?」
・「どうか、実機試作の予算をいただけますか?」

...こういったお願いを聞き入れてもらうには、「仕事をきっちりやるやつだ」「そしてこいつは良いやつだ」という二重の印象が要る...と感じている。


調整力、と最初に述べたが、僕自身、この力は曖昧模糊として捉えどころがない、と思っていた。
世間では「コミュ力」なんかと一括されがちで、この力を鍛えられると謳う書籍は山ほどあるけれど、実際に鍛えられた試しはない。



色々な努力を試しては放棄する中で、この力(調整力)の根源の1つは「ゆるみ」だと結論するに至った。



観察して気づいた事だけど、僕の回りにいる「調整力」のある人は、いずれも「適度にゆるんで」いる。
自己を縛り上げることがないのだ。

独り実験室に籠って実験したり、書庫に籠って文献を読み漁ったり、そういうガツガツさは無い。自分の能力アップよりも公共の用事を優先する。
そういう「自分一人の能力の上がり下がりに固執しない」ゆるさがある。傍にいて、とても心地いい類のゆるさだ。
緩もうとしてゆるんでいるのではなく、諦めた結果としてのゆるさ。


僕自身、「あ、うまくいったな」と感じるときは、いつも「あきらめた時」だ。
・勉強したかったけど、この商談は長引きそうだな。ま、しようがないか
・実験を詰めたかったけど、明日は会議で実験できないな。ま、しょうがないか
というように。

これに対して、「自分の決め事にこだわった」時は、必ずと言っていいほど失敗した。頭の心が固くなり、やわらかな受け答えができなくなった。



僕は勉強の価値を否定するつもりは毛頭ないが、就活で勉学よりもサークル活動が重視されがちな局面があることについては「まあアリかもね」と思う。
なぜなら、様々な方々とゆるくうまく交流できる「ゆるみ」が備わっているか判別できるからだ。

勉学は確かに大事だが、勉学に偏りすぎても弊害が生じる。
そしてその弊害は、理系の学生が想定する以上に、勉学没頭の初期から生じうる。のだと実感している。


何事もバランスが大事で、それは勉学であっても例外ではない。
研究開発を志す若手の方々は、物事に潜む両面性を常に意識できる思考回路を、若いうちに身に着けておくべきだろう。