外側の知識をあえて遠ざけることで、目の前の現象から多くを引き出す事ができうる。


僕は今、新しいコンセプトの製品を形にしている最中だ。
新しいだけに先行研究がない。近しい研究結果も皆無で、正直なところ、外部の知識を参考にしたいが参考のしようがない。


具体的に僕がやっていることは、ただ黙々とサンプルを作り続けるのみだ。
原料をフラスコに仕込んで反応をかける。反応液がどんな液状なのか、どんな変化が生じたのか、フラスコの中をじっくりと見つめる。そうした反応液の挙動から、どのくらい混ぜれば良いのか、どのくらい冷やせばいいのか、アタリをつけて処方を改良し、次に望む。
頼る知識がないので、観察にもがぜん力が入る。というか、入れざるを得ない。


驚いたのは、こうした"論文を読まない研究開発"を進めるうち、反応装置の組立てが丁寧になり、温度操作も慎重に行うようになったことだ。
なぜなら、少しでも不確定要素を減らしたい気持ちが強くなったからだ。
"答えらしきもの"が外部に知識として落ちていない以上、自分たちの手で何とかせねばならない。そのためにはちょっとしたミスも犯したくない。


研究開発は未知のものを扱う、とはよく言うけれど、その表現には多少の幅が含まれている。
1つは、系の概形は既に確立されている場合。サーチ(Search)型の研究、といえばいいだろうか。
これは比較的ラクだ。どのパラメータが寄与するのか、ある程度のバランス感覚が明確になっているためだ。論文化された"答え"を引っ張ってくれば良い。


一方、系を本当に1から組み立てねばならない場合、その難しさは跳ね上がる。
これはクリエイト(Create)型にあたる。

不確定要素が多すぎるため、系を立ち上げるだけで恐ろしい時間を食う
この場合の難しさは、前者とは多少異なっていて、
・不確定要素を絞り込む決断力
・その要素以外を関与させない徹底した丁寧さ
この2つが切に求められる。トランプで例えると「神経衰弱」をクリアしていく感覚に近い。



...「論文を引かない、文献を読まない研究開発など低レベルな単純労働だ」と思いがちだが、案外そうでもない。
僕は今の試行錯誤を通して、根本的な洞察力が身につきつつあると感じている。
急くことなくどっしりと構えつつ、1つ1つ地道に変えていき、現れた違いを客観的なモノとして信じる能力だ。

対して、外部の知識に頼っていた時は、"答え"に近づこうと焦っていたし、あらゆる要素を"答え"に近いように一気に合わせこんだし、そういった雑さが結果を誤差としたのだと疑っていた。


"答え"が近くにあると、人はどうしても焦ってしまう。
そういった焦りから自分を切り離してこそ、じっくりとした洞察ができるのかもしれない。
僕は今、すごく良い勉強をさせてもらっている...のかもしれない。