研究レポートを残し、社内に知見を残すことに、果たしてどこまでの意味があるのか?

僕は文章を書くのが好きで、自分がやった研究を逐一レポート化してまとめている。
一応断っておくが、これは趣味ではなく、研究レポートは社内制度として存在している。
れっきとした"業務"である。

断っておくと、大半の人は嫌々ながら書いているし、文章を書くのが好きな僕ですら、気が進まない時もある。研究室における卒論・修論のようなものだ。


この研究レポート、果たしてどれだけの人に、どれだけの役に立っているのか、皆目見当がつかない。
なぜならフィードバックが皆無だからだ。
研究レポートがたどる道筋は、研究レポートを書く→上司に提出する→社内に回覧される→電子データが管理サーバーに残される。
公的なフィードバックが貰える場は無い。
そして「僕が書いたあのレポート、読んだ?どうだった?何の役に立った?」と聞けるほど、僕は図太くはない。


僕が研究レポートを書く理由は「自分の好きな事で他人の役に立ちたい」という思いがあるからだ。"文章を書くのが好き"という僕の数少ない"表に出せる好き"を、どうにかこうにか今の職場の業務とすり合わせた結果であり、僕なりの答えだ。
しかしふと思い返してみると、研究レポートが具体的に誰の何の役に立ったのか、記憶にない。


所詮は自己満足なのかもしれない。また、実はタイムスケールがとても大きくて、10年20年後の誰かの役に立つのかもしれない。
...それにしたって、少しくらい「誰かの役に立った!」という手ごたえがあっても...いいよなぁ。


研究レポートは"書いて当然""出して当然"のモノだと上司は考えているのかもしれない。しかし、そこにほんの少しのフィードバックを与えるだけでも、モチベーションは桁違いになる、と僕は思う。少なくとも、誰かの役に立った実感が湧きにくい研究開発においては。

なので僕は、研究レポートを書いた人に、なるべく一声かけるようにしている。時には「レイアウトが綺麗だったよ」と、箸にも棒にも掛からないゆるふわコメントしかできない時もあるけれど。それでも、何もしないよりは1mmでも前に進んでいると信じている。


...冒頭に戻る。
研究結果の知見化は、果たしてどこまで意味がある事なのか?
これを読者の皆様へ問いたい。