3つ下の後輩が有休消化に入った。

彼は優秀だった。研究活動に前向きで、セミナーにも積極的に参加し、得た知見を自社の研究に取り入れようと頑張っていた。抱えている案件がいくつもあり、入社4年目にしてプロジェクトの中核を担っていた。そして持ち前のパワフルな元気で、プロジェクトを引っ張っていた。辞める理由は結婚というポジティブなもので、聞いたときは安心したものだった。


昨日まで彼は職場に居た。
しかし今日から、彼はもう居ない人だ。
今日出社して、予定表に斜線が引かれているのを見た瞬間、その事実を受け入れる姿勢に入った。
驚くほどすんなりと「彼はもう居ない人だ」に順応してしまった。


入社1年目は、課のメンバーの異動にさえショックを受けたものだった。
よくしてもらった先輩が営業に異動になった時は、ショックで昼飯が食べられなかった。「この人が欠けたら、僕は、職場は、どうなってしまうんだろう...?」と不安に襲われた。

しかし、異動(時々退職)を頻繁に目にするうち、「あ、誰が抜けても大したことは無いな」と学んでしまった。
どれだけ切れ者でも、事業に精通する人でも、古株の人でも、欠けてしまっても何とかなる。否、「何とかなる」という不安定な状態ではなく「殆ど何の影響も無い」が正しい。その人が異動した翌日も、普段通りに仕事が始まり、普段通りに動き、普段通りに退社する。最初の一週間ほどは「○○はどうやるんだったっけ?」と少し手間取る事はあるが、それも驚くほど早く自分で解決するようになる。


会社である以上、「代替が効くように仕事を細分化し、マニュアル化し、引き継いでおく」のは避けられない。しかし僕は、研究開発においても完全にそれが当て嵌まってしまう事に、一抹の寂しさを感じた。


研究とはその分野の最先端を走る事ではなかったか。すなわち、自分だけが知っている状態があり得る。誰かで代替できない。
そして開発とはある種の職人技だと思っていて、職人技とは「自分だけができる」があり得る。

しかし実状は、「自分だけが知っている」は許されず、「自分だけができる」も許されない。全てが処方化され、明文化され、作業手順書というマニュアルに落とし込まれる。


...冒頭の彼の話に戻ると、彼が居なくなった翌日に感じた「居なくて当たり前」を、自分自身にも当てはまると感じてしまった。
今僕は、いくつかのプロジェクトの"先端を走って"いる。僕がここを抜けたら、プロジェクトが回らなくなる。簡単には抜けられない。辞められない。そんな思いがいつの間にか僕を支え、仕事へのやりがいの源になっている。


しかし現実は、僕が辞めてもほとんど何の影響も無いのだろう。会社は代役を用意し、代役はきちんとプロジェクトを回す。僕が製品や処方にさりげなく紛れ込ませた"こだわり"は、ノイズとして除去される。
これって物凄くさびしくないか?



僕は今の会社がそこそこ好きだし、なんなら一生ここで働くのもアリかな、と思っている。それに、今まで受けた恩を返したい(という人並みの気持ち)も持ち合わせている。
田舎で農業をしたいだとか故郷に帰りたいだとか、そういった他の道への未練を忘れ得るだけの"今の道への想い"を持ちたくて、"僕以外には今の仕事はできない"という自負を得たかった。


完全に代替の効いてしまう状況って、すごくさびしい。