「○○のために△△をやるぞ」と決めて始めた事で、長続きしたためしがない。

長続きしないのは「○○のために」の方で、元々手段として始めた△△は、いつの間にか習慣として根付き、生活の一部になる。事が多い。

よくよく思い返してみれば、こういう場合の大半は、まず「△△したい」という純粋な(?)気持ちがあって→それを意義ある事にしたいから→「○○のために」を後付けしている。

なぜ意義ある事にしたいのか?僕の場合、「社会人でわざわざコストを掛けてやるからには、意義ある事であるべきだ」という思いがある。このブログを始めたのも、読むたびに引き込まれる素晴らしいブログを見て「僕もこんな風に面白いブログを書きたい」と思ったからだった。

そこに「このブログを読んだ人の役に立つ」「化学界の役に立つ」等々の大義名分を付け加えて、自分に誇りを持とうとしたわけだ。このブログをずっと読んでくれている稀有な方(いらっしゃったら感激感謝ですが)には、このブログの変遷が丸わかりだろう。僕の心変わり様に、僕自身が恥ずかしくなる。

無論、ブログを通して誰かの・何かの役に立ちたい思いは、今も心の片隅にある。しかし所詮は片隅レベルに留まり、僕の人生で主人公を演じるほど大きな思いではなかった。



思えば昔から、「なりたい理想像を考えて、それに向かう行動を取る」という事が苦手だった。むしろ、本や何かで得た"面白そうな何か"をまずやってみて、やってみた触感をグレードアップしていくというやり方が、僕の中ではスタンダードだった。


「この"行き当たりばったり"的なやり方ではマズイんじゃないか?成長しないんじゃないか?」そう不安になったのが、大学院1年の時。
とてつもなく脚が速い陸上部の後輩がいたのだが、その後輩が「なりたい理想像を考えて、それに向かう行動を取る」というやり方を、あまりに華麗かつ緻密にやってのけていた。彼の強さの秘密はそこにある。今の自分を変えなければ速くなれない。そう思ったのがきっかけだった。

しかし、そこから7年間、目的ありきで物事を進めてきた結果、目的が無い事を選べなくなった自分がいた。
「△△したい」という気持ちがあっても、目的が無ければやるべきじゃない、やっちゃいけない、と自分にブレーキを掛けるクセがついてしまった。以前の自分、「△△をやりたい」という思いのままに動いていた自分が、分からなくなった。

もっと「△△したい」という純粋な気持ちありきでいいんじゃないか?僕は思う。
「△△したい」と感じた事が自然と積み上がり、自ずと目的地にたどり着く。一見行き当たりばったりに見えるこのやり方も、実は「なりたい理想像を考えて、それに向かう行動を取る」と同じだけ効力があるんじゃないか?効力のあるなしは、やり方自体よりも、その人とやり方との相性に依るんじゃないか?今はそう思っている。

世の中には色んな方法があるけれど、方法自体はどれも効力に大差は無くて、その人との相性が実効力を決める、と僕は解している。そこでやっちゃいけないのは、方法に合うように自分を変えようとすること。自分を変えようとし続けた結果、僕は迷子になった。今も「ありのままの自分」まで戻れていない(3年かけて、かなりのところまで引き返してこれたけど)。


コストを正当化するために意義を付け足すって、ある意味最大のコストだよなぁ、と、冷静になって思う。