今日の業務
・有機合成(顧客へのサンプル)
・昨日のサンプルの組成分析
・来週の週間予定の作成
2日連続で早出残業は身体に堪える。
昨日のトレーニングの疲労も加わり、1日中脚がフニャンフニャンだった。
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努力と我慢の違いの話。
努力とは「今よりも進歩するために出来る事をやる」事だと考えている。
例えば、疲労が溜まっている時はトレーニングを休む。可動域を確保して良い動きをするために、トレーニングを削ってストレッチをする。
↑の例だと、トレーニングを削る→楽をしていると自分を攻めがちだが、必ずしも追い込むことだけが努力ではない。
そして、やりたくないトレーニングに耐える「我慢」だけが努力ではない。
重ねて言うが、我慢=努力、ではない。
我慢は努力の1要素にすぎない。
努力はもっと広い範囲を指す。工夫や戦略といった頭脳面の取り組み、身体と心の声を汲み取ろうとする感性...。
進歩に何より欠かせないのは推進力だ。
トレーニングや練習の効果を最大化するのは「やりたい」と感じるか否かに依る。と感じている。
「やりたくない」と拒否しているのに無理やりやると、心身は守りに入ってしまう。そうした中でやったことは、リラックス状態の出力とは程遠くなり、本来の動きになじまなくなる。
対して、「やりたい」と感じる時、心身は緩みと張りが最適状態になり、やった事は瞬く間に実力に転化する。
僕が800mで伸びた時は2回(高2、大4)あったが、いずれも自分で考えた戦略が的を射ており、かつ追い込みすぎない(ラクな)メニューだったので、走るのが楽しくて仕方が無かった。
推進力を確保する取り組みは立派な努力であり、自分を焚きつける工夫を努力として認知すべきだ。
対して、我慢は推進力を消費するのみ。
計画したトレーニングを心身が拒んでいるが「やらないといけない」と自分を押さえ込むのは、キツイ言い方をすれば変わるのを恐れているだけだ。
30歳になって実感しているのは、「歳を重ねるにつれてモチベーションへの投資はますます重要になる」という事。
課題へ向かわせる外力が無くなる。疲労を感じる機会が増える。
・一緒にやる仲間を集うため、トレーニングの時間を削って人に合う
・楽しみながら体を鍛えるため、軽い重量のジャンプトレーニングにシフトする
・心地よさを覚え込ませるため、クーラーをつける
こうした取り組みは、サボりではなく立派な努力だ。
表面的な達成感に引っ張られず、本質を見据えて必要な行動を選び取る勇気を持つべきだし、持ちたいものだ。
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